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デカルト『情念論』における心身の交差点──デカルト形而上学の終着点

哲学談戯

デカルト『情念論』(1649)

デカルトの形而上学を総括する書としての『情念論』

 ルネ・デカルトがその晩年に完成させた最終著作『情念論』(Les Passions de l’âme, 1649)は、彼の哲学の総括と読むことができる。すなわち、思惟する主体としての〈精神〉(res cogitans)と広がりを有する〈身体〉(res extensa)という、彼の実体概念が二元論的に分裂してしまったなかで、心的側面と身体的側面が実際にどのように交錯するかという問題に、理論的に真正面から取り組んだ著作である。

 本書は、スウェーデン女王クリスティーナの求めに応じて執筆され、献呈されたものであるが、単なる宮廷向けの「心理学」ではない。むしろ、それまでの形而上学的著作──『省察』や『哲学原理』──では意識的に棚上げにされてきた、心身相互作用の力学的・機能的説明を、当時の自然学の知見を用いて精緻化しようとする試みである。

 デカルトにとって、精神(mens)とは「延長をもたない実体」であり、「思惟の主体」として定義される。彼は身体(corpus)とは異なる原理によって存在する精神を、抽象的かつ純粋に思考するものとして取り出し、それによって心身の峻別を強調した。しかし、こうして身体から切り離された精神は、現実の人間存在における「身体との結びつき」や「感覚・感情との関係」をうまく説明できなくなる。まさにこの点を問いただしたのが、プファルツのエリザベトである。

 1643年5月16日付の書簡において、エリザベトは『省察』の著者であるデカルトに対し、次のような問いを投げかけた。すなわち、延長をもたず、思考のみを本質とする精神が、いかにして物理的な身体に影響を及ぼし、運動を引き起こしうるのか?という問いである。これは、精神と身体を本質的に異なる実体としたとき、両者のあいだに因果的な連関がいかに可能かという、いわゆる「心身問題」の始まりとなる問いだった。

 デカルトはその返書において、エリザベトの問いの重要性を認めたうえで、人間の精神には二つの側面があると述べている。すなわち、一つは「考えること」としての純粋な思惟能力であり、もう一つは精神が身体と結びついているがゆえに、身体に影響を与えたり、逆に身体から影響を受けたりする働きである。そして彼は、この後者──すなわち心身の相互作用に関する問題については、これまでほとんど論じてこなかったことを率直に認めている。

 精神の本質は「思惟」であるが、その思惟に身体からの影響により「受動的変化」が起こることは、二元論の内部に生成される亀裂を予感させる。したがって、『情念論』は、心身二元論が実際に機能するためにはどのような「相互作用モデル」が必要かという問いに対するデカルトなりの応答なのである。

「情念(passion)」の二重の意味

 『情念論』の冒頭においてデカルトは、「情念(passions de l’âme)」を、魂が身体の動きによって「受ける」感覚的変化と定義する。ここで重要なのは、「情念」(passion)という語義が語源的に、そして哲学的に二重の意味を担っていることである。

 「passion」という語の語源は、ラテン語の patior にあり、これは「苦しむ」「耐える」「被る」といった意味をもつ動詞である。そこから派生した名詞 passio は、本来「受難」や「苦しみ」を意味し、とりわけキリストの受難(passio Christi)を指す語として用いられた。このように「苦しみを受ける」という受動的な体験が、「受動性」(passionaction)という哲学的概念に転用され、さらにその受動的な経験にともなって生じる心的作用を表す語として、「情念」「激しい感情」といった意味にまで広がっていった。

 デカルトは精神の「受動(passion)」について次のように述べている。

精神が結合している身体以上に、わたしたちの精神に対して直接に作用する主体があるとは認められない。したがって、精神において「受動」であるものは、一般に身体において「能動」である、と考えねばならない。ゆえに、わたしたちの情念〔受動〕の認識に至る最良の道は、精神と身体の区別を検討することだ。それは、わたしたちのうちにある諸機能の各々を、精神と身体のいずれに帰すべきかを知るためである。

p.6

 本来、精神は思惟の主体として、能動的に働く存在であると考えられている。しかし、デカルトはその精神に「受動的な側面」があることを認める。まさにこの受動性が「情念(passion)」である。情念とは、身体から精神が受ける影響であり、精神と身体との接点にほかならない。

 我々の心的経験を分析し、純粋に精神それ自体によって生じる思考を峻別していけば、そこに残るものは、身体からもたらされた影響に由来するはずである。デカルトにとって、そうした身体の働きが精神に及ぼす影響こそが、情念の純粋な働きであり、それを明確にすることによって、精神と身体の相互関係を理解する道が開かれると考えた。

 デカルトにおいては、精神は思考の主体として、身体とは根本的に異なる原理として存在するものとされている。しかし、その一点を除けば、感覚刺激や身体の変化が神経系と脳を通じて精神に影響を与えるという、きわめて機械論的かつ近代的な身体観が展開されている。精神の独立性という形而上学的立場の背後には、身体を物理的機構として捉える自然科学的視座がすでに現れているのである。

松果腺(glande pinéale)と心身交錯の機構

 『情念論』における最も注目すべき主張の一つは、松果腺を精神と身体の交点と見なした点にある。デカルトは、松果腺が脳の中央に位置し、左右対称でない唯一の部位であるという解剖学的特徴に注目し、この部位において魂が身体からの刺激を受け取り、また意志を身体に伝達すると考えた。つまり、松果腺は心と身体をつなぐ中継点として理論的に位置づけられている。

 この心身交錯のモデルは、当時の自然科学的知見を積極的に取り入れたものである。たとえばデカルトは、ウィリアム・ハーヴェイ(William Harvey)による血液循環の発見を参照し、心臓が常に熱を帯び、入ってきた血液を膨張させて全身に送り出すという、熱機関的なメカニズムを展開した。そして、血液は脳室に達すると、そこで「精気(esprits animaux)」へと変換される。この精気は、ポンプのように身体内部を流動し、筋肉や器官に運動を与える動力源となる。デカルトによれば、松果腺はこの精気の流れと精神の働き(判断・意志)が交差する場であり、そこを通して情念が生起する。

 もちろん、このモデルは現代の神経生理学から見れば極めて素朴であり、実証的な正確さを欠いている。しかし重要なのは、デカルトが心身二元論のもとにある理論的断絶を乗り越えるために、心と身体の因果的関係を説明する「媒介構造」を明示的に仮定したという点である。彼は、魂が物理的世界の中でどのようにして作用し、また逆に影響を受けるのかという問題に、当時の自然科学の枠組みの中で応答しようとしたといえる。

六つの基本情念と派生的情念の体系化

 デカルトは情念を六つの基本型に分類する:驚き(l’admiration)、愛(l’amour)、憎しみ(la haine)、欲望(le désir)、喜び(la joie)、悲しみ(la tristesse)。これらは、魂が身体の変化を受けたときの基本的な反応様式であり、それぞれの混合や変容によって無数の派生的情念が生起する。

 この分類は、アリストテレス的感情論の枠組みを一部継承しつつも、より力学的・力動的に構成されている。たとえば、驚きとは、未知の対象に魂が向けられる運動であり、注意(attention)という能動性に変化しうる契機を含む。愛や憎しみは、対象を身体的に近づけたいか、遠ざけたいかという空間的指向性をもっており、これは身体の運動と直接結びついている。

 こうした体系化は、情念を単なる内的感覚ではなく、世界との関係性における「志向的運動」として捉えることを可能にする。まさにデカルトにとって情念とは、魂が世界の機械的運動に対してどのように関与し得るかを示す現象学的証左なのである。

情念と倫理──理性による情念の制御という課題

 デカルトは、情念(passions)を理性の妨げとなる排除すべき悪しきものとは考えていない。むしろ、正しく理解され、適切に制御された情念は、人間の徳や意志の力を支える重要な契機となりうる。デカルトのこの立場は、古代ストア派の情念観と明確に異なる。ストア派においては、情念は理性の誤りに由来する混乱であり、「無感動(apatheia)」を目指すことでこれを克服すべきものとされた。

 これに対してデカルトは、情念の完全な抑圧ではなく、その原因を明晰に認識することによって、それらを理性の指導のもとに秩序づけ、さらには善用すべきであると考えた。彼にとって、情念は理性によって方向づけられる限り、主体的な自己統御を支える役割を果たす。

 このようにデカルトは、理性中心の倫理学の枠内に情念を位置づけ直すことで、感情と理性を対立的に捉える従来の伝統を乗り越え、両者の統合をはかろうとした。『情念論』におけるこの試みは、近代以降の感情哲学や道徳心理学に先駆けるものであり、理性的主体としての人間における情動の役割を再評価する契機となった。

結語──『情念論』の理論的位置とその意義

 『情念論』は、デカルトが心身二元論の理論的限界を乗り越えようと試み、その実践的帰結を具体的に示した著作である。

 この著作が後のスピノザ、マルブランシュ、ライプニッツらに大きな影響を与えたことは広く知られている。特にスピノザは『エチカ』において、デカルトの情念論を批判的に継承し、情念を理性によって解放されるべき「受動的情動」として再定義した。

 現代においても、情動科学、神経倫理学、あるいは人工知能における感情モデルにおいて、「情念をいかに理論化しうるか」は依然として重要な問題である。そうした中で、『情念論』は、理性と感情、心と身体の接点を、初期近代の知的文脈のなかで考え抜いた哲学的挑戦として、再評価されるべき著作だろう。

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