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インド思想の源流──〈自己〉を問い直す思想:仏教の誕生と展開

仏像 晴筆雨読

仏教──「自己」を問う思想の転換点

 ヴェーダ的宗教思想とその後のブラフマニズムが宇宙と人間の根源的結合、すなわちアートマン(自己)とブラフマン(梵)の一体性を説いてきたのに対し、仏教はその前提そのものを根本から問い直した思想運動である。紀元前5世紀頃、釈迦(ブッダ)によって開かれたこの道は、自己や魂といった恒常的実体の存在を否定し、苦の原因を探究し、そこからの解放=解脱を実践的に目指すものであった。

 仏教の登場は、インド思想史における画期的な転換点をなす。世界の真理を「宇宙的原理」にではなく、「因縁」と「行為(業)」によって説明し、人間自身が修行によって苦から脱する可能性を開示した仏教は、ヴェーダ的秩序の外に出ることで、まったく新しい倫理と認識の地平を切り拓いたのである。

ブッダの不可知論と実践主義

 ブッダ(釈迦)は悟り(正覚)を得た直後、自らが到達した解脱の智慧(解脱智)を他者に説くべきかどうか逡巡したと伝えられている。それは、この教えがあまりにも深遠で、煩悩に覆われた一般の人々には理解され難いと考えたためである。
 しかし、当時のインドにおいて、形式化し形骸化したバラモン教の祭式主義と、禁欲的な苦行主義という両極の宗教的実践が広がる中、人々が真の救済から遠ざかり、苦しみに放置されている現実を憂い、ついに説法を決意する(梵天勧請)。ここから、ブッダの伝道の旅が始まる。

 最初の説法の地は、サールナート(鹿野苑)であり、ここでブッダは「初転法輪(しょてんぽうりん)」と呼ばれる最初の教えを説いた。これが後に「四聖諦(ししょうたい)」「八正道」「中道」として体系化される、仏教の核心的な教義である。

 四聖諦は以下の四つの真理から成り立つ:

  1. 苦諦(くたい):人生は根本的に「苦」であるという認識。
  2. 集諦(じったい):その苦しみの原因は「渇愛(tṛṣṇā)」、すなわち欲望や執着にある。
  3. 滅諦(めったい):その原因を滅すれば、苦しみもまた滅する(涅槃の可能性)。
  4. 道諦(どうたい):その滅を達成するためには「八正道」による修行が必要である。

 この「道諦」において説かれる八正道とは、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八つの実践であり、快楽主義と苦行主義の双方を否定した「中道」の生き方を具体化するものとされる。ブッダは、極端な二分法に陥ることなく、中道を歩むことによって、真の解脱(涅槃)に至ることができると説いた。

 ブッダの思想の本質は、ヴェーダにおける梵(brahman)という形而上学的原理への合一を目指すような方向ではなく、むしろ一切の本質主義的・形而上学的問いから離れ、苦の滅却という現実的な目的に収斂するものである。そのため、ブッダの説法では、涅槃とは何かという形での肯定的・記述的説明はほとんど与えられていない。涅槃は「体験」されるべきものであり、言語や概念によって説明されるべきものではないとされた。

 このように、ブッダは真理を思弁や論理によってではなく、実践と直接的な内観によってのみ知り得るとした。また、宇宙は永遠か否か、有限か無限か、死後に自己は存続するか否か──といった形而上学的・形而下的な問いに対しては、いずれも沈黙を守った(ブッダのこの沈黙を「無記」という)。それらの問いは「解脱に役立たない」として、実践的に無意味とみなされたのである。

 このような姿勢から、ブッダの立場は「不可知論(Agnosticism)」とも解されることがある。ただし、それは懐疑主義的な無関心ではなく、実践的目的に資さない認識をあえて手放すという積極的沈黙であった。

 ブッダの哲学は、徹底した実践主義に貫かれていた。人を救うのは知識ではなく、正しい実践に基づく瞑想と行である。思惟による真理の探求を捨て、行為と観に立脚した悟りの道──それがブッダの教えの核心であり、後の仏教全体の基礎を築くものであった。

根本分裂と説一切有部の思想

 ブッダの入滅から約100年後、戒律(ヴィナヤ)の解釈をめぐって仏教教団内部に意見の対立が生じた。これが仏教史上最初の教団分裂とされ、「根本分裂」と呼ばれる。この分裂により、保守的な立場をとる上座部(Theravāda)と、より柔軟な対応を模索した大衆部(Mahāsāṃghika)という二つの部派が成立した。

 この分裂以後、上座部は南方へと伝播し、特にセイロン島(現在のスリランカ)において、紀元前1世紀ごろにパーリ語による経典編纂(いわゆる『三蔵(ティピタカ)』の形成)を進める。
 一方で、北西インドではサンスクリット語を用いた仏典の編纂も行われていた。こうした地域的・言語的展開の中で、上座部の一派から発展したのが、のちに北伝仏教で重要な位置を占めることになる説一切有部(Sarvāstivāda)である。

法と現象:説一切有部の形而上学的体系

 仏教においては、永遠不変の神や霊魂の実在を否定し、諸行無常因果律に貫かれた「法(ダルマ)」の働きのみが世界の根本原理として認められる。法とは、あらゆる現象の構成要素であり、それらは瞬間的に生起し、消滅する刹那生滅の存在である。このように変化し続ける現象を、仏教では「有為(うい)」と呼ぶ。

 上座部系の教義においては、人間存在もまた五つの構成要素からなるとされる。これを「五蘊(ごうん)」という。すなわち、

  1. 色(しき)―物質的側面
  2. 受(じゅ)―感受作用
  3. 想(そう)―表象・概念形成
  4. 行(ぎょう)―意志・動機づけ
  5. 識(しき)―識別意識

 人は固定的な「自己」として存在するのではなく、これら五つの蘊が相互依存的に一時的に集合している存在にすぎないと理解される。

過去・現在・未来の法の実在性:説一切有部の革新

 説一切有部は、これらの法(ダルマ)を単なる現象の一時的表れとするのではなく、過去・現在・未来にわたって潜在的に存在すると考えた(三世実有論)。つまり、まだ現れていない法(未来)やすでに消えた法(過去)も、ある種の潜在的実在性を持つとされた。これは、仏教の無常観や無我思想と一見矛盾するように思われるが、説一切有部においては、「刹那ごとに現れるが、それらの現象の背景には法の持続的潜勢力がある」という形而上学的枠組みが組み立てられていた。

 このような立場によって、人間の心身現象や行為もまた法によって構成され、「自己」や「人格」も五蘊の仮の集合にすぎないとされる。ここに、仏教の核心的教理である「無我(アナートマン)」の思想が、理論的に深化された。

縁起と業:人格的連続性の説明

 もっとも、説一切有部は自己の連続性(=「人格の流れ」)を完全に否定したわけではない。たとえば、行 = 意志作用(サンカーラ saṅkhāra)は業(カルマ)として次の存在の形成を導く。このような構造を説明するために説一切有部は、「縁起(pratītyasamutpāda)」の法則、すなわち因と縁によってあらゆる現象が生起するという教義に立脚しつつ、個人の存在の連続的流れを理論化した。

神なき世界と自己責任

 原始仏教および説一切有部においては、創造神や絶対的原理(たとえばバラモン教における梵(ブラフマン))のような存在は否定されている。世界と自己の苦しみは、超越的な存在に帰せられるのではなく、自己の業とその因果律によって説明される。このような思想は、「倫理的因果論」としての業の教理に支えられ、仏教の徹底した合理主義と自力救済思想を支える根幹を成している。

大乗仏教の成立と思想

 紀元前後のインドにおいて、それまでの仏教、すなわち自己の解脱を目的とし阿羅漢(アルハット)となることを理想とする出家修行者中心の仏教(いわゆる上座部仏教)に対し、新たな仏教理解が生まれてきた。それは、他者(衆生)の救済を第一とする「菩薩道」を説き、従来の個人的悟りを目的とした出家修行中心の仏教を批判的に再解釈するものであった。

 この新たな潮流では、仏陀(ブッダ)とは単なる一歴史的修行者ではなく、永遠の真理(法)の顕現として現れる超越的存在とされる。そして、その教え(法)は、一度限りではなく、時代に応じて何度も説かれ、後代に顕示された教えほど深遠かつ高度であるとみなされた。これを「後期顕教優位の思想」と呼ぶことができる。

 この見解は、従来の教理や経典に加えて、新たに編まれた経典(『般若経』や『法華経』など)を「仏陀の真意を時代に応じて説いたもの」として正当化する理論的土台を提供し、仏教の思想的多様性と展開の余地を大きく広げることになった。このような立場を取る仏教が、後に「大乗仏教(マハーヤーナ)」と呼ばれるようになる。

菩薩道と信仰の深化

 大乗仏教においては、「仏陀の教えに帰依し、その慈悲に導かれて修行することで、自らも菩薩となり、他者の救済に尽くす」という理想が強調される。これは、「自利よりも利他を優先する」という価値観に基づくものであり、修行者個人の解脱よりも、すべての衆生の救済(普遍的解脱)を目指す姿勢である。

 こうした信仰のあり方は、菩薩や仏に対する敬虔な信仰を生み出し、次第に仏の存在が宗教的対象=神聖な超越存在として再定義されることにつながっていく。

三身説と仏の超越性

 このようにして、仏陀の存在がより超越的・神格的に捉えられる中で、仏の本質的あり方を理論化するための教義が整備された。その中心的な教理が、「三身説(さんじんせつ)」である。

 三身説とは、仏陀には以下の三つの存在形態(身)があるとする教義である:

  1. 法身(ほっしん, Dharmakāya)
     仏の本質にして、宇宙の根本真理そのもの。形を持たない、超越的な存在。
  2. 報身(ほうじん, Saṃbhogakāya)
     仏が修行の功徳によって得た報いの姿として顕現する存在。たとえば阿弥陀仏薬師如来などはこの報身にあたる。
  3. 応身(おうじん, Nirmāṇakāya)
     歴史的に人間界に現れた仏、たとえば釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のように、衆生を導くために姿を取って現れた存在。

 この三身説により、仏は単なる過去の聖者ではなく、永遠に存在しつつ、あらゆる世界に応じて姿を変えて顕現する超越的存在として捉えられるようになった。これにより、仏への信仰は一層宗教的色彩を強め、また、菩薩もまた衆生を救済するために自らを犠牲にする理想的存在として尊崇されるようになった。

結論

 このようにして、大乗仏教は、仏の存在論的地位を高めるとともに、個人的悟りから普遍的救済へという価値転換を実現し、より多くの人々に開かれた宗教運動として発展した。それは、哲学的深みと宗教的信仰を併せ持つ、仏教の新たな地平を切り開くものであった。

参考

ヤン・ゴンダ『インド思想史』(1948)

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