アイザック・アシモフ『生物学の歴史』(1964)
生物学者としてのアシモフ
アシモフといえば、SF作家として有名だが、同時にボストン大学医学部の生化学の教授でもあった(教鞭は執っていなかったようだが)。
一般向けの科学書(いわゆる、アメリカでよく言うpopular science)を多数執筆していて、本書もその内の一つ。原書は1964の出版。
古代ギリシアの科学の始まりから、現代の分子生物学までの歴史の流れをきれいにまとめてある。
アシモフの描く科学の進歩は、奇抜なSF的発想とは全く違って、非常に正統的。科学の発展は、何よりもまず、個別の観察から始まり、仮説の提示、実験による検証へと進んでいくことによって、達成されるものであって、科学は事実の集積だという信念に裏打ちされている。
生物学発展の歴史
植物や生物の外観、習性を丹念に観察し、博物学を作り上げたアリストテレス。動物の解剖によって生物の器官を詳細に書きとめたガレノス。古代の科学者は、観察を通じて、合理的な考えを養っていった。
だが、中世に入ると、思想優位の時代となって、観察の重要さは忘れ去られてしまう。観察結果よりも宗教的な思想や信条に重きを置いた時代だ。
宗教的な世界観に逆らって、本格的な実証的科学の幕開けが始まるのは、1543年の科学革命の年からだ。この年は、コペルニクスが地動説を発表した年であり、生物学ではベルギーのベサリウスが『人体の構造について』という解剖書を出版した年であった。
ここから現代生物学へつながるさまざまな発見が現れてくる。
特に顕微鏡による観察が、生物学を進歩させる上で大きな役割を果たした。ハーヴィの血液循環(1628)は、顕微鏡により毛細血管が発見されることで証明された。オランダの商人レーウェンフックは、顕微鏡を改良して微生物を発見した(1683)。この発見により微生物学が誕生する。
だが、新しい発見は、さらなる次の疑問を呼び起こしていく。限られた観察結果から証明できることは、一部のことに過ぎない。その結果さまざまな解釈が現れて、科学は思想的な対立を引き起こしていく。
生気論と機械論の対立、生物の自然発生論、燃焼におけるフロジストン説、有機物と無機物の境界をめぐる議論など、17世紀、18世紀は科学が思想的な対立を強めた時代だ。
このような議論にある程度の決着をつけるためには、観察技術の進歩を待たなくてはならなかった。
本書の最後二章は、彼の専門である生化学に比重が置かれている。内容もかなり専門的になっていくので、ついていくのが大変だ💦
観察の集積としての科学
アシモフは、観察による発見によって、宗教的、哲学的対立が乗り越えられていく様子を丹念に描いている。
現代の科学思想は、実証実験や観察よりも、理論的考察の方を重視する傾向がある。現代の物理学――相対性理論や量子力学は、実際の発見よりも理論的予測の方が先行して発展した。また、科学の発展においては、パラダイム・シフトと呼ばれる概念枠組みの転換が、重要な役割を果たしたとされている。だが、現代物理学の新たな理論の発見もパラダイムの変換も、観察される事実との整合性をとろうとする中で起こるものだ。その意味で、観察結果が重要であることに変わりはない。アシモフの描く生物学は、何よりも観察によって進展するものなのだ。
本書は、少し駆け足な部分はあるが、過去の科学者たちが、さまざまな実験や観察方法を発見していく歴史を一冊で俯瞰することができる。科学の進歩は、地道な観察結果の集積によるものなのだということ(科学進歩に関する王道的な解釈だが)を改めて感じさせられた。