臨床的知識とは何か?
現代の医療現場では、医療従事者に対して性質の異なる二つの知的能力が求められている。一つは、病理学や薬理学といった基礎医学の知識に基づき、病気の原因や症状を科学的に分析・診断する「科学的知性」である。そしてもう一つは、患者一人ひとりの状況に応じて柔軟に対応するための、「経験に根ざした臨床的知識」である。
近代医学は、疾病の発生メカニズムや薬剤の作用機序といった因果関係の解明を中心に発展してきた。病理学では、生理学や生化学の知見に基づいて病因を特定し、薬理学では薬物が人体に及ぼす影響を明確に記述する。こうした知識は、科学的手法によって再現可能なデータに基づき、普遍的かつ客観的な医学的理解を目指すものである。
一方、臨床的知識とは、個別的かつ多因子的な現象を統一的な視座から把握しようとする知であり、現象の複雑さや人間の全体性に即して応答する能力でもある。とりわけ複雑系の理論が注目されるようになった現代において、このような知の必要性が再認識されてきている。
しかし、こうした臨床的知識は、医療現場では重要視されながらも、長らく科学思想史の中では周縁的な扱いを受けてきた。その理由は明白である。臨床的知識は、再現可能性や明示的な論理構造をもたないため、科学的知と同様の枠組みで捉えることが困難だったからである。
ところが今日では、生命倫理やケアの重要性が叫ばれるなかで、こうした「全体を俯瞰する視点」や「経験に根ざした応答的な知識」が、単なる補助的知識ではなく、むしろ医療の倫理的・社会的実践に不可欠な資質であることが明らかになりつつある。臨床的知識は、医療現場における対人対応のみならず、広く社会倫理や生命の価値をめぐる問いに応答するための基盤となりうるのだ。
では、「臨床の知」はこれまでどのように発展してきたのか。本稿では、中村雄二郎の著書『臨床の知とは何か』(1992年)を手がかりに、臨床的知識の歴史的展開とその思想的意義を概観してみることにしよう。
機械論と臨床医学の分岐
16世紀中葉、天体や物体の運動に関する新たな法則が次々に発見され、天文学と物理学は飛躍的な進展を遂げた。これらの成果は、やがて17世紀の「科学革命」へとつながり、自然に対する人間の認識は大きな転換を迎えることとなる。
この時期、自然現象はもはや「神の意志」といった形而上学的説明ではなく、観察と数学的法則によって理解されるべき対象へと変化していった。自然は意志や目的を持たず、機械のように物理法則のみに従って運動するとする「機械論的自然観」が成立したのである。この世界観は、近代科学における基本的なパラダイムとなり、その後の科学的知性の根幹を成すことになった。
しかしながら、この機械論的な視点が医学に適用されるには、なお長い時間が必要であった。天体や物体と異なり、人間の身体は極めて複雑で、複数の要因が絡み合う「複雑系」として成り立っている。したがって、17世紀当時の物理学的な機械論をそのまま人体に適用することは困難であり、単純な因果関係で説明できる領域は限られていた。
そのような中、1628年にウィリアム・ハーヴェイが発表した血液循環論は、医学における機械論の画期的成果として登場した。血液の循環という身体内部の運動が、物理的原理に従うメカニズムとして説明されたこの発見は、近代生理学の幕開けと見なされる。
しかし、それでもなお病気の発生や経過を捉える病理学においては、機械論的理解が十分に展開されるには至らなかった。身体という複雑な対象を前にして、医学は機械論的科学の進展に即応することができなかったからだ。その隙間を埋める形で登場したのが、「臨床医学」という新たな知の体系である。
その出発点とされるのが、1676年にイギリスの医師トマス・シデナムが発表した『医学観察』である。彼は、診断や治療において最も重視すべきは、患者の症候の観察であると主張した。彼の方法論は、演繹的な理論よりも経験と具体的事例の蓄積を重んじる経験主義的アプローチであり、そこに臨床医学の原型があった。
シデナムの思想は、医療の実践において観察と記述を重視する方向へと流れを作り、17世紀末以降、臨床医学が徐々に発展していく契機となった。すなわち、機械論の適用が困難だった医療の分野において、観察と経験に基づく「臨床的知」が知の体系として浮上し始めたのである。
病理学の登場とその限界
19世紀に入ると、近代医学の諸分野において次々と新たな発見がもたらされ、臨床医学もまた大きな展開を遂げていく。とりわけ19世紀後半には、医学の歴史において画期的な出来事が生じた。病理細菌学(細菌学)の登場である。
細菌学は、特定の疾患に対応する病原微生物の発見に基づいて、特定病因説や局在病理説を主張した。これらは、病気の原因を明確に特定し、病理現象を因果的に説明する新たな理論枠組みを医学にもたらした。微生物によって発病するという明快な因果関係が提示されたことで、病理学は初めて科学的な説明原理を獲得したのである。
この転換点となったのが、1881年にルイ・パストゥールによって行われた公開実験であった。パストゥールは、弱毒化した炭疽菌を羊に接種し、それによって炭疽病への感染を防ぐことに成功した。この実験は、「免疫」という概念を初めて実証し、ワクチンによる予防という考え方に科学的裏付けを与えるものだった。
さらにロベルト・コッホが、炭疽菌、結核菌、コレラ菌を発見し、近代細菌学の基礎を築いた。またパウル・エールリッヒは、特定の病原体を選択的に攻撃する抗毒素(抗体)を抽出し、病原菌に対する化学療法の道を開いた。こうした成果により、感染症に対する医学は大きな飛躍を遂げることになる。
急性伝染病のような疾患においては、外来の病因が臨床的にも明確であり、病気の進行が一定の段階を経ることから、病気を機械論的な因果過程として理解することが可能になった。この理解は、病理学を近代科学の水準にまで高める原動力となった。
しかし、病理学が発展するにつれ、その限界もまた浮き彫りになっていった。たとえば、病原細菌に感染しても必ずしも発病しない例が多く存在することや、ある種のワクチンが特定の疾患には極めて有効である一方で、他の病原体にはほとんど効果がないことが判明し、特定病因説の普遍的妥当性に疑問が呈されるようになった。
こうした問題意識のもと、かつての臨床医学と関係の深い体質病理学(constitutional pathology)が再び注目されるようになる。ここでは、病気の原因は単なる外的因子(病原体)にあるのではなく、患者の体質や素因と外的刺激との関係性の中で理解されるべきだとされる。体質という概念は、全体としての個体に関わるものであり、機械論的に分解された「局在的」病理観では捉えにくい疾患を説明するために用いられてきた。
さらに、病理学の発展はその有効性とともに、新たな医学的課題も生み出すことになった。特定病因説に基づく治療は、抗生物質の大量投与を促進し、その結果として耐性菌の出現や重篤な合併症を引き起こすようになった。また、抗生物質の使用は有害な病原体だけでなく、人体に有用な常在菌も排除してしまい、人間と微生物との共生的バランスを崩す原因ともなった。
このように、病理学は近代医学に科学的基盤を提供する一方で、機械論的身体観の限界をも明らかにすることになった。現代の医学は、こうした課題に直面するなかで、病理学の進歩を再検討しつつある。今日では、病気を理解し治療するには、単なる物理化学的な視点にとどまらず、生態学的・関係的観点──すなわち、個体と環境、病原体と宿主のあいだにある動的なバランスに着目する必要があると認識され始めている。
参考図書
中村雄二郎『臨床の知とは何か』(1992)
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