デカルト『哲学原理』を読む【後編】──形而上学編
デカルト『哲学原理』(1644)
形而上学の刷新──一切の学問の基礎づけの試み
『哲学原理』は、デカルトの形而上学においても集大成と位置づけられる作品である。
『方法序説』および『省察』においてすでに懐疑論的な方法を確立していたデカルトは、この『哲学原理』において、その方法に基づき形而上学を根本から再構築することを試みている。その試みは、単なる理論の刷新にとどまらず、当時支配的であったスコラ哲学との全面的な対決を意味していた。
では、デカルトが乗り越えようとしたスコラ哲学とは、いかなる哲学であったのか。
スコラ哲学の中心的な主題は、一貫して「存在者とは何か」という問いであった。とりわけ有名なのが、12世紀に展開された普遍論争であり、そこでは実在論と唯名論が「普遍(universalia)」の実在性をめぐって激しく対立した。この論争に見られるように、スコラ哲学の根本関心は常に、「存在者(ens)という語によって、いったい何が意味されているのか」という問題に向けられていた。言い換えれば、「存在とは何か」を問い続ける営みこそが、スコラ哲学の本質だったのである。
スコラ哲学における存在論
スコラ哲学において「存在者(ens)」とは、単に現実に存在する個物(実在)だけでなく、概念として存在する普遍(本質)をも含む、二重の意味を持つ語として理解されていた。これは、トマス・アクィナス以来のスコラ哲学における標準的な定義であり、実在と普遍の両者を「存在者」として包括することで、存在の意味を多層的に捉えることを可能にした。
このような定義からは、さまざまな哲学的問題が派生する。たとえば、もし普遍(=本質)も存在者と認められるならば、具体的に見て触れることのできる個別の存在は、その普遍にとってどのような地位を占めるのか。あるいは、ある存在が可能的なのか、必然的なのか、偶有的なのかといった、存在のあり方(存在様態)の区別が必要となる。さらに、普遍的存在そのものも、表象としての存在、概念としての存在など、複数の存在論的次元に分かれていく。
このようにスコラ哲学は、「存在者にはいかなる存在性格があるのか」を問い、その多様な存在様態を統一的に説明する原理を探究する学問であった。
そしてその探究は、最終的には絶対者としての神の存在性格へと向かう。すなわち、「神は存在者としていかなる存在の仕方をしているのか」という問いである。この問題への答えこそが、中世形而上学の最終的かつ最重要の課題とされた。
中世のスコラ哲学においては、「神」や「善」あるいは「美」といった絶対的存在が、存在論的にどのような性格を持つのかを論じることが主題とされた。それは、単なる神学的信仰の対象ではなく、存在者の究極的なあり方としての神を、論理と概念によって説明しようとする、哲学的営みだったのである。
神を問う意義
デカルトもまた、スコラ哲学が取り組んでいた「神の存在性格」という問題を引き継いではいた。しかし彼は、「我思う、ゆえに我あり(cogito ergo sum)」という懐疑論的方法を確立し、それに基づいて哲学を根本から構築し直そうとした。この方法は、スコラ哲学が扱っていた「真・善・美」などの多様な存在者の議論を排除する方向に働いた。デカルトにとって、懐疑に耐えうる唯一の存在者は「神」であり、それ以外の存在者は一度、すべて疑わしいものとして棚上げされることになる。
したがって、デカルト哲学における存在論の主題は「神」のみであり、それ以外の存在者については、確実な知識が得られるまで論じることすら許されなかった。このようにして、デカルトはスコラ哲学における豊かな存在論的問いを懐疑論によって一掃することになった。
デカルトが試みた神の存在証明については、その妥当性をめぐって今日でも議論が続いている。一般には、「完全性」という概念から神の実在を導くその論証は論理的飛躍を含むものとして批判されることが多い。しかし、歴史的観点からより重要なのは、この神の存在証明が、普遍的な知識の確実性を保証する役割を果たしていた点にある。
とりわけデカルトにとって重要だったのは、数学的知識の普遍的・必然的正しさであり、それを保証する存在として神を位置づけた。神の完全性が、私たちの明晰判明な知性を欺かないという保証を与えることで、デカルトは形而上学の基礎を固めたのである。
デカルトにとって、内省的な思考によって得られる明晰かつ判明な判断や数学的概念が、単なる主観的な思いつきではなく、客観的な真理として成立するためには、それを保証する確固たる根拠が必要だった。彼にとって、その保証を与える唯一の存在が「神」である。すなわち、理性的な判断が誤りでないと確信できるのは、完全に善であり、欺くことのない神が、その正しさを保証しているからである。
このようにして、理性による判断の確実性が神の存在によって担保された上で、デカルトは経験的世界の実在についての探究に進む。そして、彼は実在するもの、すなわち物質的存在を「延長を持つもの(res extensa)」として定義する。ここでいう「延長」とは、空間的な広がりを意味し、それによって物質は幾何学的・数量的に記述可能な対象となる。
この定義によって、自然界はもはやアリストテレス的な質的・目的論的理解の対象ではなく、機械的かつ数量的に理解されるべきものとされる。こうして、自然科学における数学的世界観と機械論的枠組みが理論的に整備され、近代科学の発展に向けた地盤が築かれることになった。
このように見ると、デカルトの哲学は中世的な形而上学、とりわけ神の絶対性という問題系を継承しつつも、それを土台として、近代的な科学と哲学の出発点を切り開いたものであると言える。デカルト以後の自然科学は、神による形而上学的保証を喪失しながらも、彼の機械論的世界観のみを受け継いで発展していくことになる。
デカルトは、スコラ哲学の存在論的問いを引き受けつつ、それを懐疑論的な方法と明晰判明な理念に基づいて再構成し、新たな認識の枠組みを切り開いた。18世紀以降の自然科学の急速な発展、そして哲学の中心が存在論から認識論へと移行する転換の契機を準備したのが、まさにデカルトの思想だったのである。
デカルトは、中世と近代のあいだの決定的な接点に位置する哲学者なのである。
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