脳科学

チョムスキーと脳科学

言語相対論からチョムスキーの普遍文法論へ

 言語が異なれば、物事の捉え方、把握の仕方が異なる―――
 このような考えは、言語相対論と呼ばれる。

 西欧諸国では、19世紀から20世紀にかけて植民地が拡大すると、非西欧文明との接触に促されて、世界のさまざまな言語への視野が広がっていった。言語の多様性への関心が高まっていった時代だと言える。
 この時代、言語学は、さまざまな民族の言語を比較することによって、言語により物事の表現の仕方が異なり、それが物事の認識の仕方にまで影響を与えていることを発見した。この発見とともに個々の言語の固有の法則や形式が、それ自体価値のあるものとして評価されるようになる。それぞれの言語には、それ独自の観点や論理があるという、言語相対論的な考え方が一般化していった。

 いくつか例を挙げると、まずアメリカでは、B.L.ウォーフの研究がある。彼はネイティブアメリカンの言語を研究し、実証的な知見から言語ごとにものの認識の仕方が相違していることを証明した。
 他には、ドイツでの意味論学派の研究が挙げられる。意味論学派は、語彙の意味の解釈を通じて、理念的に言語に固有の認識方法が存在することが主張された。内在的な意味分析の結果として、言語相対論の考え方が支持されていた。
 このように20世紀の前半の言語学は、言語相対論が主流だった。

 だが、この言語相対論に完全に異を唱える主張が、大戦後突如として現れる。それがチョムスキーの生成文法だ。チョムスキーがこの考えを発表したのが57年であり、60年代を通じて多大な影響力を持った。

生得的な文法の存在を証明することの時代的限界

 チョムスキーは、言語に文法が存在し、規則的に運用される根拠を人間の生得的な知識に求めている。
 世界中では、様々な異なる言語が話されている。この一見、多様に見える様々な言語の形式は、それぞれ独自に成立するのではなく、その基底において、共通の普遍的な構造を持ち、それが実際の運用の段階で多様な展開を示すというのが、チョムスキーの発想であった。

 だが、生得的知識という人間の脳内に存在すると仮定されるものを実証的に証明する手段は、当時はまだ全く整っていなかった。60年代当時は、MRIやPETといった脳科学の研究技術が未発達だったこともあり、ほとんど脳科学に関する知見を採用せずに、生成文法論が展開された。そのため、人間は文法的知識を持って生まれてくるという奇異な言語観は、熱烈な支持と同時に、様々な批判も呼び起こすことになる。

 当時の生成文法論で用いられた方法論は、主に仮説の提示とその検証という極めて伝統的な手段だったといえる。生得的な知識とされる文法規則を理論的仮説として提示し、それを他の言語に適用することで帰納的にその妥当性を検証するという方法で、チョムスキー以降、生成文法を支持する言語学者達によって多く採用されていた。
 だが、この方法論で証明できることとは、あくまでも理論的仮説の妥当性までであり、その存在の証明ではない。生得的知識と呼ばれるものは、理論的仮説であって、その域を越えるものではまったくなかった。

 しかし、80年代以降、MRIを利用した脳波測定の技術が一般化し、脳科学は飛躍的に進歩し、そこから様々な知見がもたらされるようになる。このような脳科学の発展を受けて、生成文法の理論を脳科学によって裏付けようとする試みも行われるようになった。生成文法を検証する新たな方法論が登場したのである。
 これはチョムスキーのいう生得的知識を、実証的に証明しようという試みだといえる。生成文法論は新たな時代を迎えたのである。

脳科学の実証研究による証明の試み

 では、現在、脳科学は、人間の持つ生得的な言語知識にどこまで迫ることができたのだろうか。
 現在の脳科学が示したこととは、主に二つあり、それは脳の機能局在と各機能の独立性(モジュール仮説)だ。たとえば、話す、聞く、書く、読むといった言語の4技能は、脳のそれぞれ異なる場所において処理されており、それぞれの機能には自律性がある。
 ここで脳科学が証明したことは、身体的、物理的な脳の機能として人間には普遍的な言語能力があるということでしかない。しかし、チョムスキーが証明しようとしたこととは、すべての言語を統一的に処理する普遍的な法則(文法)に関する知識であったはずだ。つまり、脳というhardwareの普遍性ではなく、言語の情報処理というsoftwareの普遍性を問題にしていた。

脳科学の限界

 チョムスキーは、幼児が必ずしも理想的とは言えない言語環境から、正しい文法知識を獲得できるのは、行動主義の立場からは説明できないと指摘していた。これを「プラトンの問題」と呼ぶ。
 たとえば、幼児が接している発話の中には、言い間違い、言い淀み、破格文など様々な誤った言語情報が混在している。このような不完全な言語情報しか与えられない言語環境の中から、何が正しい情報で何が間違っているのかを幼児は区分できない。何故ならそれもまた言葉によって指摘され、説明されなくてはならないからだ。
 幼児がこのような不確実な条件下から正しい言語を獲得しなければならないとすれば、幼児が完全な文法を獲得する事は原理的に不可能だということになる。だが、現実では、幼児は、不確実な状況を克服して、言語の習得を可能にしている。それは、幼児がはじめから文法に関する知識を持って生まれてくるからだ、というのがチョムスキーの解答であった。

 だとすれば、人間の脳には、話す、聞く、書く、読むといった言語を運用するための普遍的な機能(身体的、物理的なもの)の他に、統語論・意味論・音韻論に関する普遍的な知識(情報処理的なもの)を持っていなければならないことになる。

 どのような言語にも文法や規則は必ず存在している。そして、実際に人々が、言葉を正しく獲得し、正しく発話を行っているという社会的事実がある以上、統語論的規則や意味解釈、音韻規則を正しく理解し、それを適切に運用する能力を人間が普遍的、かつ生得的に持っていることは容易に想像することができる。
 しかし、その知識がどのようなものなのかは、全く分かっていないというのが現状だ。
 言語を適切に運用しているという事実は普遍的であっても、それが従う法則(情報処理の方法)は言語ごとに多様であるという可能性は十分にありうる。実際の言語活動においてすべての言語が、普遍的な法則に基づいて言語情報を処理しているのかどうかは、まだ全く分からないからだ。

 言語ごとに異なる多様な文法が、単一の普遍的な法則によって処理することがそもそも可能であるのか、もしそれが可能であるとしたら、それはどのような形の知識であるのか。

 現代の脳科学は、物理的な機能に関する証明は進展したが、統語論、意味論、音韻論に関する普遍的な規則の証明までには全く至っていない。そもそも、普遍的な規則が「知識」という形で脳内に存在しているのかどうかも定かではない。言語情報を処理する法則が、いったいどのような形式で、どのような種類のものであるのかさえ、まだ誰にも分かっていないのだ。
 チョムスキーの「人間は文法に関する知識を生得的に持って生まれてくる」という主張と現在の脳科学が証明できていることの間には、まだ大きな開きがある。それを安易に結びつけている議論はあまりにも多い。

 言語処理が脳内の「どこで」「なにを」「どのように」行われているかということは、現代の脳科学でかなりの範囲が証明できつつある。
 しかし、「どのような規則」によって多様な形で現れる言語を統一的に処理しているのか、あるいは文法や言葉の意味を解釈しているのか、ということは全く未知の領域だ。それがどのような種類の知識であるのかさえ分かっていない。

 言語と脳科学というのは、進歩のめざましい分野であるが、なにが証明できていて、なにができていないのかを明確に把握しておかなければ、言語の普遍性という言葉の意味そのものをはき違えてしまうおそれがあることだけは確かだ。どのような言語であっても言語処理が脳内の普遍的な機能に基づいて行われるという脳科学が証明しつつある事柄と、脳内の生得的な知識から多様な言語規則が演繹されるというチョムスキーの主張とでは、明らかに普遍性の意味が異なるからだ。

普遍性の意味を取り違える誤り

 脳科学が示した機能局在と各機能の独立性は、言語を運用する「機能」の普遍性を証明したのであって、多様な言語規則を統一的に処理する生得的、かつ普遍的な「法則」を証明したわけではない。
 脳内における文法などの言語処理が他の認知機能や情報処理とは、独立したモジュール性を持つということは、現代の脳科学が証明しつつある。だが、それを安易に普遍文法の存在に結びつけることはできないはずだ。機能局在やモジュール仮説は、チョムスキー理論の正しさの証明とみる訳にはいかない。チョムスキー理論の正しさを証明するには、多様な規則を普遍的、統一的に処理する知識とはどのような種類のものなのか、脳がそれをどのように処理しているのかを明らかにする必要がある。

 チョムスキアン達は、生得的な知識の存在を想定しているが、言語の脳科学はまだその証明までには至っていない。まずは言語の普遍性というときのその意味を考え直さなくてはならない。でなければ脳科学は言語活動における脳機能の普遍性の証明から先へは進めないだろう。脳科学の進展は、改めて「言葉とは何か」という古い哲学的な問題をわれわれに迫っている。