革命と政治──ゴーリキーの揺れ動いた立場と思想
マクシム・ゴーリキーの生涯は、理想としての革命と、現実としての政治権力との衝突の記録であった。彼は一貫した政治的立場を保った作家ではない。むしろその態度は、時代の推移に応じて大きく揺れ動き、その揺れそのものが、近代ロシアにおける知識人の宿命を象徴している。
社会主義革命の持つ理念上の理想主義、現実政治における矛盾、そして、政治体制の崩壊とともに説得力を失ったイデオロギーとしての正当性と革命の理想──
そうした過程のかなで、常に評価の揺れ動いたゴーリキー。それは、彼自身が革命と現実政治に対して抱えた矛盾を反映したものでもある。
彼の社会主義と政治への関わりを以下に追っていこう。
理想への接近──革命への共感と独自思想
19世紀末、ゴーリキーはマルクス主義に接近し、ツァーリ体制に対する反対運動に身を投じた。1902年にはウラジーミル・レーニンと知り合い、ボリシェヴィキとも親密な関係を築く。とりわけ1905年の血の日曜日事件以降、彼の政治的姿勢は一層急進化し、革命運動を資金面でも支援するに至った。
しかし彼の革命観は、レーニンのそれと一致していたわけではない。ゴーリキーは「神の構築(God-Building)」と呼ばれる独自の思想を抱き、革命を単なる経済的・政治的変革としてではなく、人間の精神的再生の契機として捉えていた。
彼にとって重要なのは制度ではなく「人間」であり、文化的覚醒こそが革命の本質だと考えていた。だが、レーニンは彼のこの神に対する思想を聞いた際に、一笑に付している。この点ですでに、彼の理想は現実政治とのずれを孕んでいた。
幻滅と対立──革命権力への批判
そのずれは、1917年の十月革命後、決定的なものとなる。ゴーリキーは当初ボリシェヴィキに近い立場にあったが、権力を掌握した彼らの統治を目の当たりにし、急速に批判的態度へと転じた。
彼は、1918年にボリシェヴィキを批判するエッセイ集『時ならざる思想』を出版し、レーニンを「ロシアという生きた肉体で実験を行う化学者」と酷評し、革命の名のもとに個人の自由や尊厳が踏みにじられている現実を強く非難した。理想として思い描いていた「人間の解放」は、現実には暴力と抑圧によって遂行されていたのである。
レーニンを言論の自由を弾圧する暴君と批判したこの書は、1988年のペレストロイカに至るまで、ロシアで再出版されることはなかった。
同時期に彼は、政治的弾圧から作家や知識人を守ろうと尽力したが、その試みはしばしば無力であった。詩人の処刑を阻止できなかった経験などは、彼にとって決定的な挫折となり、革命政権との溝をさらに深めた。
また、1921年7月、ゴーリキーは、作物の不作によって数百万人の生命が危機にさらされている現状を国際社会に訴える声明を発表した。さらに彼は、飢饉救済を目的とする組織「ポムゴリ」の設立を提唱し、自らもその活動に参加した。
しかし、この組織のメンバーの多くは、のちに「反革命犯罪」の容疑でソビエト当局に逮捕されることになる。一方、ゴーリキー自身はそれに先立ってソビエト・ロシアを離れており、逮捕を免れた。
1921年から1922年にかけて発生したこの飢饉は、「ポヴォルジエ飢饉(ロシア飢饉)」とも呼ばれ、主にヴォルガ川およびウラル川流域を中心に甚大な被害をもたらした。推定で約500万人が死亡したとされる。
妥協と回帰──スターリン体制への接近
1921年9月、ゴーリキーは持病の結核の療養と国内の政治的緊張を避けるため、国外へと離れた。その後、ムッソリーニ政権下のイタリアにおいて、ソレントでの定住を許可される。しかし、亡命先での生活は次第に経済的困窮を深めていった。
こうした状況の中で、ゴーリキーはスターリンによってソ連への帰還を促される。帰国の背景には、資金面での事情だけでなく、祖国との関係を断ち切れないという彼自身の内的動機もあったと考えられる。
帰還後、彼はヨシフ・スターリン政権と協調する姿勢を示し、「ソ連文学の父」として体制の象徴的存在となる。かつて権力を批判した作家は、ここで一転して体制を公然と支持する立場へと移行した。
この変化は、彼自身の転向を示すものではないだろう。むしろ、理想と現実の乖離に直面した結果としての「妥協」だった。そして、彼自身の弱さを示すものでもあった。
彼は強制労働や集団化政策、さらには見せしめ裁判といったスターリン体制の暴力的側面を、少なくとも公の場では肯定する。ソロフキ収容所を訪れた際にも、その過酷な実態を知りながら、「労働による改造」という公式イデオロギーを支持する文章を書いた。
しかし、この文章は、後にソルジェニーツィンの『収容所群島』が出版されたことによって、その欺瞞性が激しく批判されることになる。
ここには、かつての人道主義的理想と、現実政治への適応との深刻な乖離が露呈している。
晩年の矛盾──沈黙と内面的抵抗
晩年のゴーリキーは、体制の象徴でありながら、同時に孤立した存在でもあった。公的にはスターリンを支持し、「社会主義リアリズム」の創始者として振る舞う一方で、私的には体制に批判的な作家たちを擁護し続ける。
この二重性は、彼が完全に体制に同化したわけでも、完全に抵抗したわけでもないことを示している。むしろ彼は、いずれの立場にも徹しきれないまま、政治権力の内部に取り込まれていった。
やがて彼は政権の不信を招き、晩年は事実上の軟禁状態に置かれる。その死についても、自然死ではなく政治的関与があったのではないかという疑念が残されている。
理想と現実の裂け目に生きた作家
ゴーリキーの軌跡は、「革命を信じた作家」がいかにしてその現実に裏切られ、なおもそこから離れきれなかったかを示している。
彼を動かしていたのは一貫して、「民衆の苦難を救いたい」という人道主義的情熱であった。しかし現実の政治は、その理想を実現するどころか、しばしばそれを踏みにじる装置として機能した。
その結果として生じたのが、批判と協力、抵抗と沈黙が交錯する複雑な態度である。ゴーリキーは主体的に政治に関与したがゆえに、同時にその力学に深く拘束され、「翻弄された作家」とならざるを得なかった。
この意味で彼の生涯は、文学者が現実政治と関わることの可能性と限界を、極めて劇的な形で示している。

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