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【科学思想史】宇宙像の変遷

プトレマイオスからコペルニクスへ

 14世紀初頭、フィレンツェの詩人ダンテによって描かれた『神曲』―――
 そのなかで語られた世界観は、中世の宇宙像を典型的に表している。

 天体はなぜ宙に浮いているのか。それは、天界と地上とでは、異なる法則が支配しているからである。天界と天体は、地上の物質を支配する物理法則に従うことはない。天体は地上の落下運動から自立している。また天体には、生成や変化、消滅がない。
 それに対し、地上の存在にはすべて落下運動が働いている。なおかつ、すべての存在が生成、変化、消滅を繰り返す。地上を構成している物質は四種類の元素からなり、これが事物の生成変化を引き起こすとされた。そして、この四元素はそれぞれの徳によって格付けされていた。

 16世紀の前半、この古い宇宙像に対して、全く新たな理論が提示される。コペルニクスによる地動説である。1543年に出版された『天球の回転について』の中で展開された。
 それまで絶対的な権威とされていた天動説は、2世紀頃の古代ローマの哲学者プトレマイオスによって体系化されたものだ。以来、古代中世を通じて、その権威が揺らぐことはなかった。コペルニクスは、天動説の理論体系やプトレマイオス自身が伝えた古代の観測資料を真っ向から否定したわけではない。ただ、その解釈を変えたのである。

 天動説では、天体の逆行運動の説明が極めて複雑なものになっていた。火星、木星、土星など地球より外の軌道を回る外惑星は、地球の公転速度の方が早いため、地球から観測すると追い抜く際に、軌道上を逆行するように見える。天動説はこの問題を惑星が円を描きながら軌道を回っているためと解釈した。これを周転円と呼ぶ。その結果、地球を中心としない円軌道がいくつもできることになった。コペルニクスは天体の動きはより単純で美しいはずだと考えていた。彼は古代の観測資料に信頼を置き、既存の観測記録のすべてに合致するような新しい体系を発見することを目指した。コペルニクスは太陽を中心にすべての惑星の軌道を描くと、この天体の逆行運動の問題が、すべて見かけ上の問題になることに気が付いた。
 コペルニクスは新たな観測的事実から地動説を導いたのではない。プトレマイオスの理論が取り扱った範囲内の諸現象を別の視点からより簡潔に説明できるような新体系を提示しようとした結果、地動説にたどり着いたのである。このように、コペルニクス自身は観測をそれほど重視していたわけではなかった。観測の重視はこの世紀の後期に、特にティコ・ブラーエの登場を待たなければならない。

 コペルニクスの地動説は、発表当初、一部のプロテスタントを除き、それほど深刻な宗教的反発を招くことはなかった。約1世紀後のガリレオとは非常に対照的だ。それは、古代のアリストテレス-プトレマイオス的宇宙論がキリスト教に取り入れられ、中世では正統なキリスト教的世界観として受け入れられていたからである。旧約聖書に描かれる世界像は柔軟に解釈され、プトレマイオスやアリストテレスの宇宙像と宗教的な対立を生むことなく融合していた。なかには聖書の記述を曲解してまでアリストテレス的宇宙像と整合を図る場合さえあった。コペルニクスの地動説は、プトレマイオスの宇宙像の完全否定としてではなく、一解釈として受け入れられ、激しい宗教的反発を引き起こさなかったのである。

 コペルニクスの宇宙像には、宗教的な対立よりもむしろ理論的な難点の方が多かったといえる。コペルニクス自身も地動説には、ある点で理論的難点があることを承知していた。
 もし地球が太陽の周りを公転しているとすると、その軌道上の反対の二点から一つの同じ恒星を観察した場合、角度の差からその位置が少しずれて見えるはずである。同じ一つの物体を左右片目ずつ閉じて見ると位置がずれて見えるのと同じ理屈である。これは実際ずれているのだが、当時の観測技術では、その差があまりにわずかなので、この事実を確認することができなかった。これが観測によって確認されるのは、コペルニクス以降、3世紀もの時間が経ってからだ。正確な観測数値が得られなかった結果、コペルニクスは、恒星の位置を地球からはるか遠い位置に仮定せざるを得なかった。
 このように地動説は、16世紀前半はほとんど議論の対象にならなかった。新たな観測的事実が次々と報告されるようになった16世紀の末になってようやく論争される段階になるのである。

天体観測の時代

 16世紀後半に入ると、コペルニクスのような理論からではなく、観察的事実から古い宇宙像が否定され始める。特に、1572年の新星の出現は、ヨーロッパの人々に大きな衝撃を与えた。1574年の初頭にこの新星は消滅する。この事実は、天上界は変化も生成、消滅もないという古来の宇宙像に矛盾していた。また、1577年には彗星が現れる。この頃になると観測技術は進歩していたため、この彗星が月より下の地上の世界にではなく、天上界に起こっていることが観測されていた。
 この頃には、天上界を埋める透明な天球という考えや彗星を火の元素の発火であると説明する中世的な世界観に疑問が持たれるようになる。アリストテレス派の理論にも限界が来ていたと言っていい。

 望遠鏡の発明は、天体観測の精度を飛躍的に進歩させ、古い宇宙像の崩壊をより早く招く要因となった。木星の衛星が発見され、天体の運動には中心が複数あることが明らかとなった。また、太陽に黒点が発見され、月の表面には凹凸が確認された。この観測事実によって天体は完全無垢な球体であるという観念が否定された。コペルニクスの理論とは関係なしに、古い宇宙像を否定せざるをえないような不都合な事実が観測によって次々と明らかにされていたのである。

 1600年、イギリス人のウィリアム・ギルバートが発表した磁気に関する説も宇宙像の変化を促すのに一役買っている。ギルバートは、球形の磁石を磁場に置くと回転することを発見した。そして、惑星の自転や公転も同じ磁気による力に起因していると考えた。地球全体が一つの磁石であり、重力も一種の磁気的力であるとされた。この説は、透明な天球が地上を覆い、その上に天体が張り付いているという世界観を排して、惑星は何もない空間に浮かんでいるという考えを導いた。この発想の影響のもとに新たな宇宙像を想像していったのがケプラーとガリレオであった。

新たな宇宙像の理論化

 16世紀後半にティコ・ブラーエは、詳細な天体観測を実施した。彼が残した観測資料をもとにヨハネス・ケプラーは、16世紀に目覚ましく発展した数学を利用して新しい宇宙体系を作り上げていった。
 ケプラーの構築した理論には、天文学上重要なものが三つある。後に「ケプラーの法則」と呼ばれ、1619年までに体系化された。
 まず、第一は、楕円軌道の法則である。火星軌道の例外的な変則性を説明するために、楕円軌道を正当なものとして認めた。この結論は一つの惑星だけでなくすべての惑星に当てはまるはずだと彼は考えた。これにより古代以来の惑星の円運動の神話は終わりを告げたが、それでは楕円軌道によってどのように宇宙の秩序は保たれているのかという新たな疑問が生じてくる。これに対する答えは第三の法則の発見まで待たなければならなかった。

 第二は、面積速度一定の法則と呼ばれるものだ。ケプラーは、惑星が一様の速度で運動していないということを知ると、運動の速度に代わる一定の秩序が他にあるに違いないと考えた。その探求の結果、一惑星と太陽とを結ぶ線は等しい時間に等しい面積を描くという法則を発見した。これが意味することは、惑星の速度は、太陽からの距離に影響されて動いているということだ。この発見は、惑星が太陽から発せられる何らかの力によって動くという考えを根拠づけた。

 第三の法則は、調和の法則と呼ばれる。これは、惑星軌道運動の周期の二乗は太陽からの平均距離の三乗に比例するというものである。ケプラーは惑星の軌道が楕円であることによって宇宙の秩序が乱れると考えたが、これに第三の法則を当てはめることでこの秩序問題に答えた。この第三の法則は、ケプラーが数の調和を信じていたことによって発見されたものだ。天上界に存在する数学的調和を信じ、それを究明することが彼の関心だったのである。
 この探究により彼は、宇宙に17世紀最初の機械論的体系を作り上げる。それは、宇宙の体系を神の意志から離れた純粋に時計仕掛けの存在に帰することを意味したのである。

 コペルニクスによって始まった宇宙像の転換は、ガリレオの登場によって一応の完結を見せる。

 1609年、オランダで望遠鏡が発明されるとガリレオは、自ら望遠鏡を組み立てて観察を始める。そして1632年に対話形式による『二大世界体系(天文対話)』を発表した。この著作は天文学の分野だけでなく、力学の領域にまでわたって、アリストテレス的自然観への批判を展開している。すでに17世紀の新しい天文学は、アリストテレス的運動論に代わる新しい力学を創出しなければ行き詰ってしまうという局面にまで達していた。ガリレオは、天体を地上の物体と同様に扱い、落下法則に支配されるものとして考えた。それは、宇宙全体を一つの統一的な物理法則によって説明しようとする試みであった。

 ガリレオは宗教裁判にかけられることになったが、彼以降、新たな宇宙像の時代が始まるのである。

参考図書

ハーバート・バターフィールド『近代科学の誕生(上)』講談社学術文庫
ハーバート・バターフィールド『近代科学の誕生(下)』講談社学術文庫