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歴史的偉人に学ぶ英語勉強法 – 斎藤兆史『英語達人塾』(2003)

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斎藤兆史『英語達人塾』(2003)

 巷に溢れる大量の安易な英語学習本に背を向け、本気で英語を習得しようという人に向けた本。

 本書が目指すところは、ひじょーに次元が高い。

 「Native English speakers並みを目指す!」

 。。。というのではない。
 Native speaker以上を目指す!というのだ。生半可な気持ちで本書を手に取ると後悔する。(まぁ新書という体裁で『英語達人塾』なんて題の本を手に取る人は、はじめから、実践的で実用的な英語よりも、教養としての高度な英語を身に付けたいという人だと思うが。)

 だが、ごく一般的な日本人にとって、native speaker以上の英語力を得ることは実際可能なのだろうか?
 帰国子女や英語圏で育ったような人でもない限り、日本で、日本語環境だけで育った一般的な日本人にとって、英語は相当な難関だ。言語学的に見ても日本語と英語の間には、関連性がほとんどなく、日本人にとって、習得の難しい言葉だといえるだろう。

 新渡戸稲造、斎藤秀三郎、岩崎民平、幣原喜重郎、等々、歴史上の著名な語学の達人たちの学習方法が紹介されているが、それは、一部の天才たちだからこそできたのであって、汎用性があるとは思えない。まるで野球の素人にイチローの練習方法を薦めるようなものだ。

 しかし、それでも「native speaker以上」の表現能力を習得する可能性は、決してゼロではない。それは、「語学力=言語表現能力」ではないからだ。

英語の能力と言語表現の能力の違い

 われわれが普段、日本語を使っている時においても、状況を的確に言語化し、相手に理解できるように明確に説明できる人は意外と少ない。
 それは、英語の場合でも同じだ。Native English speakerが、英語を話す際に、論理的で明晰な表現に長けているかといえば、必ずしもそうはいえない。
英語であれ、日本語であれ、母語で話す際に、論理的でかつ明晰な表現で、的確に相手に伝えることができている人は、決して多くない。つまり、「語学力」以前に、「言語表現能力」というものがあるのだ。

 日本人がどれだけ英語の学習に時間と労力を割いたとしても、訛りや不自然な表現を完全になくすことは困難だろう。その点では、native speaker以上の「英語力」を習得するのは、はっきり言って無理かもしれない。
 だが、native speaker以上の「言語表現能力」を手に入れることは、訓練次第では可能かもしれない。

 英語、日本語に関わらず、言語表現において明晰かつ論理な表現に努めること―――

 英語を単なる意思疎通のための道具に終わらせるのではなく、英語を高度な自己表現のできるものにまで高めるには、単に語学力だけではなく、表現力、思考力などに関わる言語表現能力が求められる。そして、こうした言語表現の力においては、native speakerの英語力を上回ることを目指すことは、決して無理難題というわけではないはずだ。

 そのために著者が提唱する訓練方法は、いたって単純だ。基礎的な文法を疎かにせず、文の構造を一からきちんと把握していくこと。いわゆる精読だ。
 多読や速読がもてはやされて、おおよその文意が把握できればよい、という効率を重視した考え方が一般的な中で、あえてアナクロニズムに徹している姿勢は、好感が持てる。もちろん、著者が多読などの方法を否定しているわけではない。あくまでも、多読のような方法は、文の構造がきちんと把握することができて精読ができる能力があってはじめて、役に立つものだということだ。漫然と字面だけ追っていても、決して英語は上達しないということだろう。

英語の表現能力を磨くことは日本語の表現能力を磨くことと同じ

 こうした基礎的な英語表現能力があって、その上で、明晰かつ適切な表現ができる言語能力を磨かなくてはならない。そうしてはじめて、native speaker以上の英語力を習得するための出発点に立つことができるのだ。
 このような言語能力を鍛えることは、日本語の表現能力を磨くことでもある。

 日本人は普段から、論理的で理詰めの表現を忌避する傾向がある。意見はなるべく表に出さず、曖昧にし、角が立たないように工夫する。こうした言語態度をとっている限り、たとえ英語の表現能力が高かったとしても、明晰な表現の力というのは、いつまでたっても上達しない。
 英語の達人を目指すことは、日本語の達人を目指すことでもあるのだ。ひいては言語一般の能力を高めることでもある。

 本書は、そうした高みを目指す人のための指南書だ。私もそうした高みを目指して、New Crownから読み直そうかと思う。