カフカ

疎外された者の孤独 – カフカ短編作品

カフカ

 カフカは、未発表や未完成作品を含めて、数多くの短編を残した。カフカの短編小説の多くは、寓話(parable)と呼ぶべきものであって、話の筋や流れ自体にほとんど意味がない。そのため、その話が何を物語っているのか、いろいろと解釈する必要がある。

 実存主義、ユダヤ教、20世紀初頭のプラハ、病と孤独、複雑化する官僚機構、はたまた、現代の精神病理。。。等々。従来の伝統的な観点からの解釈だけでなく、現在でも、読者それぞれのさまざまな観点から作品が読み継がれている。そうした幅の広い解釈を自由に受け入れるだけの奥行きがカフカの作品にはある。
 カフカの作品を読むということは、この解釈という作業と切っても切り離せない。一読しただけでは、ほとんど意味の取れない謎めいた内容が、読者の様々な解釈を誘うことになる。それが、読み手にとっては非常に愉しい負担となるのだ。そこにカフカの魅力がある。

『掟の門』

 原文では、掟は「Gesetz」なので、どちらかというと「法」といった意味だろう。

 この主人公は法の前で立ち尽くしている。「掟」という訳だと非常に限られた狭い仲間内のものという印象を与えてしまうが、「法」であれば、万人に公平に開かれたもの、という意味合いになる。(英訳でも「law」となっている。)
 だが、この万人に公平に開かれたものであるはずの「法」にこの主人公だけが入っていくことができない。一人だけ疎外されている。
 法の門番は、この主人公が息絶えようとしている間際にある事実を告げる。この「法」の門は、お前個人のためだけに作られたものなのだと。

 ここで万人のものである法が、私的で個人的なものへと変化している。つまりは、個人的なものと社会的なものが最後に逆転しているのだ。社会と思っていたものが実は、私的なものだったのだ。

 社会は、一見すると個人に対立するもののように見える。しかし、それぞれ個人が作り出し、所属している社会関係は、その個人にとっての社会であって、その意味で社会は私的なものだ。
 人は時に抗いようのない社会の存在の前に立ちすくんでしまうが、実はその社会は、個人が作り出す私的な領域でしかないのだ。。。

『判決』

 ゲオルクはロシアにいる友人に手紙を書こうとしている。自分は商売も順調で、婚約も決まり順風な人生を送っている。方やロシアにいる友人は、不遇な生活を送っていた。ゲオルクは、そうした友人に自分の近況を伝えることにためらいを抱いている。友人を傷付けることになるのではないかと。
 しかし、そうした現実は、父親の一言で途端に不確かなものになる。ゲオルクの父親は言う。お前に友人などいないと。

 年を取るにつれて、旧友と疎遠になってしまうことはよくあることだ。特に社会的な地位や境遇に大きな差が開いてしまうと、なおさら会うのが気まずくなる。
 自分が惨めな境遇にあるとき、順風な生活を送る旧友の姿は、支えになるどころか、妬みや恨みの対象にさえなる。
 本当に不遇な生活を送っていたのは、自分の方か、ロシアにいる友人の方か。。。

 池内紀訳は、最後の場面の状況がいまいちよく分からない。しかし、英訳で確かめてみたら非常にすっきりしている。橋の欄干にぶら下がったゲオルクは、欄干越しにバスが来ているのが見えた。このバスの音は、ゲオルクが橋から落下した時の音など容易に打ち消してしまうだろう。ゲオルクは欄干から手を離した。その時、橋の上では途切れることなく車が行きかっていた。

 ゲオルクは誰にも気づかれずに自殺したというオチ。結局、どちらが不遇の人生だったのか誰にも分からない。そもそもゲオルクが語った生活が本当だったのかさえも。。。

『流刑地にて』

 とある流刑地に視察に訪れた旅行家。そこでは、独特の決まりによって刑が執行されていた。近代刑法では到底容認できない恣意的で非人道的な刑の執行。裁判もなく、囚人には弁護の機会すら与えられない。
 流刑地の将校は、この旅行家に、ここの制度の擁護を依頼する。しかし、旅行家がそれを断ったことで、この制度はあっけなく瓦解する。

 今まで当然と思っていた現実が、よそから来た者のたった一言で簡単に崩れてしまう。しかし、それはずっと以前から予見できていたものだ。狭い世界の現実は、外の世界からのほんの些細な影響で崩壊する。将校はそれをよく知っていたからこそ、従容として、自ら死刑台に立ったのだ。

 旅行家がこの流刑地を去る間際、前任の司令官の墓を見つける。墓の碑文には、その司令官の栄誉とその復活が謳われていた。
 旅行家が去った後、流刑地の制度が存続したのか、または廃止されたのか、それは誰にも分からない。。。

Kafka – The Complete Stories (English Edition)