酒井邦嘉『言語の脳科学』(2002)
脳科学が証明する言語の機能局在
2002年刊行。
ちょっと古めの本。脳科学が言語処理に関する脳機能のどこまでを証明できているのか、当時の研究成果を解説している。言語処理における脳の機能局在、モジュール仮説、プラトンの問題など、脳科学が主要な課題としているものが分かりやすくまとめられている。
言語障害の事例分析やMRI技術を用いた実験から、脳は、言語情報を「統語」「意味」「音韻」として、それぞれ独立の情報として処理していることが示されている。そして、それらの情報は、脳の異なる部位でそれぞれ処理していることも明らかになっている。これは機能局在と呼ばれる説で、言語の脳科学で最も基本的な説だ。
脳は、機能ごとに異なる部位で情報を処理している――こうした見地から、人間の言語能力は、脳の独立の情報機能の複合として成立していることが仮説として提唱されている。これをモジュール仮説と呼ぶ。著者は、チョムスキアンの立場から、この仮説が、将来的にあらゆる言語を生みだす「法則」の証明にまでつながると考えているようだ。
チョムスキー理論は脳科学によってどこまで証明可能か
脳の機能局在説とモジュール仮説―――
これによって、人類のすべての言語は、普遍的な情報処理に従うという、チョムスキーの普遍文法理論は証明されたことになるのだろうか?
だが、脳科学が証明した事実と情報処理の普遍性との間には、大きな隔たりがある。本書を読んでも分かる通り、現在の脳科学が証明できていることとは、脳の機能局在というところまでだろう。
機能局在は、物理的な存在としての脳が、言語処理の際に、「特定の部位が特定の機能を担う」ということを説明しているに過ぎない。脳がそれぞれの部位で、分担的に役割を果たしているということは、身体的な「脳機能」の普遍性でしかない。
この普遍性は、身体上の「機能(function)」あるいは「能力(ability)」の普遍性であって、言語の「情報処理(algorithm)」の普遍性ではない。脳の機能局在説は、多様な言語表現を可能にする言語情報処理の普遍的な「法則」や「規則」の存在を証明していることにはならない。
つまり、物理的な脳機能の普遍性と、チョムスキーが主張する、多様な言語表現を統一的に情報処理する「普遍文法(言語情報処理の普遍性)」との違いが不明確なまま、本書では、議論が展開されていて、脳科学がチョムスキーの普遍文法のどこまでを証明できているのかがわかりにくくなってしまっている。
チョムスキーの発想は、もともと人間は、すべての言語の情報処理に適応可能な普遍的規則に関する知識を持って生まれてくるというものだった。このような生得的な言語に関する知識は、プラトンのイデア説にちなんで「プラトンの問題」として知られている。
このようなチョムスキー的な普遍文法の知識、すなわち、現実の言語運用の場面で、多様な形式で現れている言語表現を統一的に処理している脳の情報処理の仕組みは、現在の脳科学では、まだ全く未知の領域だ。
どのような法則(algorithm)で言語情報を処理しているのか、そもそも言語の情報処理に普遍的な法則性があるのかどうかさえ分かっていない。脳が言語に関してどのような情報処理を行っているのか、その過程を探る糸口すら全くわかっていない状況だ。
その点が解明されるまでは、脳科学からチョムスキー理論を裏付ける試みは成功したとは言えないだろう。本書に限らず、言語の脳科学に関する本を読む際は、「普遍性」という言葉が何を意味しているのか、この点を考慮しながら読むべきだと思う。