意識はどこから生まれるのか? – 下條信輔『意識とはなんだろうか』(1999)

心理・意識

情動の発生

 猿や人では、側頭部にある扁桃核という部位が、情動反応や社会的行動において主要な役割を果たしていると考えられている。
 扁桃核の働きを見るため、サルでこの部位を切除した実験が行われた。その結果、切除されたサルより、その周囲のサルのほうに目立つ行動異常が見られたという。これは扁桃核切除の直接の結果である情動表現の変化が、他のサルからは明らかな異常として把握され、周囲の猿の方にその変化に対する反応がより増幅され目立つ形となって行動に表れたと考えられる。

 社会性のある動物では、知覚系と運動系が集団内で相互作用しながら、個体間で連鎖の輪を形成している。そのため、ある個体の変化に対する周囲の反応に影響の増幅が見られるのである。もともと情動という機能そのものが自他の共鳴現象なのである。

意識の発生

 自己の意識というのは他者の存在から指摘されて初めて、成立する。意識は自律的に生じることはない。これは言葉の成立を考えてい見ると分かりやすい。
 自己の意識と言葉の意味は、その成立条件において非常に似ている。たとえば、言葉の意味は、直接的な指示だけでそれを他者に伝えることは不可能だ。直接的指示による提示のみによって、言葉の意味を伝えたり学習したりすることはできない。たとえば、道端のある花を指して、「花」という言葉の意味をそれを知らない誰かに伝えてみるとしよう。直接指を指して、これが花だと言ったとする。しかし、その発言が示していることが、その花の色のことか、形のことか、あるいはその発話の状況のことか、またその指がさしているのは、花の一部か全体か、このようなことは直示だけでは断定することができない。

 ヴィトゲンシュタインは直示的な意味の指示に代わって「言語ゲーム」による意味の習得、学習を提示した。彼によれば、どのような状況下でどのように言葉を使えば、自分の思っているような反応を相手から得られるのか、という言葉を介した他者との相互反応の状況全体を学ぶことこそが、言葉の意味を学習することだと指摘した。ヴィトゲンシュタインはこれを言語ゲームと呼んだ。

 この言語ゲームの概念は、個人が内省によって言葉の意味を学ぶ過程が、他者の経験による反応を学習することの方が先だという、自他経験の逆転を前提にしている。たとえば、痛みという個人の心の内側にあると思われる経験は、他人が痛みを感じた時の行動を学習することが先で、そこから内側の体験も輪郭づけられるのである。

 意識の起源に他者の身体と外部の環境があるのは明らかである。結局、自分をもう一人の他人として外から観察し、名指ししてもらうことによってしか、自分の有様を記述する仕方を学ぶことはできない。したがって、またそのようにしてしか自分を意識することはできない。他者の心は実在するから学ばれるのではなくて、あるものとして学ばれるから結果として実在する。自分の心もまたあるものとして学ばれるからこそ、意識されるようになるのである。

 意識は、自己の心理や精神から自律的に生じるものではない。また、脳の生理機能として生じるものでもない。他者の脳の認知機能を前提として、自他相互の共鳴現象として生じると考えるべきだろう。

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